草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 親鸞語録『歎異抄』(唯円・編)より

    親鸞は、父母の孝養のためとて、
    一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。

  『歎異抄』は、信念の書である。私は自己の信念と対面するとき、いつでも『歎異抄』を開いて問う。南無阿弥陀仏の念仏の力を信じ切っている、その親鸞との対話を求めているのだ。親鸞のもつ信念は、私の信念を育んでくれた。その信念の力は、信ずるものを正しく美しいものだとしていないところにある。親鸞は、念仏が間違っていてもいいのだと言っているのだ。親鸞はその師である法然に、たとえ騙されたとしても何の悔いもないと断言している。
  信ずるとは何か。それを親鸞ほど語りかけてくれる者はいない。多くの人を念仏の力によって、往生させることだけを願って生きているのだ。この発願だけによって、人生を生き切った。念仏の力だけに頼る他力本願を信じ切ることに、親鸞の生命の全力がある。その親鸞が、何よりも尊いその念仏を、父母のためには使ったことがないと言っているのだ。つまり、念仏による真の救いを「自己」に向けたことがないということだ。この件を読む度に、私の目頭には熱いものが滲む。
  愛の本質を、これほど示す言葉はない。親鸞の問いを知る者は、親鸞のもつ愛の力に打たれるのである。万人の救済を願う宗教を確立した者が、その恩恵を自己と自己の家族には一切向けないのだ。ここに、私は信念というものの本質をいつでも感じている。信念をもつとは、こういうことなのだ。すべての者の極楽往生を願う者が、「地獄は一定すみか」と言い切って、自分は地獄に堕ちる覚悟で生きている。私は信念とは何かを問うとき、親鸞のこの言葉を思い返さぬことはない。

2021年3月1日

親鸞(1173-1262) 鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。幼時に母を失い出家。比叡山で天台宗を学んだのち、法然に師事。浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説き、悪人正機を唱えた。弟子の唯円によって法語集『歎異抄』が編まれた。

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