草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 源信『往生要集』より

    何とて悲の心ましまさずや、我れは悲の(うつわ)なり。

 「悲」とは、愛と慈悲の心である。源信は、その『往生要集』において、地獄の有様を克明に描き出した。そして、地獄に堕ちる者の特徴として、悲の心の欠如を問い続けたのだ。冒頭の言葉は、地獄に堕ちたある者の叫びだ。閻魔の面前で、その者は言う。なぜ自分に悲の心をかけて下さらぬのか、納得がいかない。自分は現世において多くの人々に悲の心を与えた。自分は愛と慈悲の人間だと言うのだ。そして、それが本当なのである。その者は、悲の心に生きていたのだ。
 しかし閻魔は、その内実を問うている。冒頭の言葉に続いてその情景が写し出される。悲の名において、現世を生きた者の本質が浮かび上がる。それは愛と慈悲ほど、自己の名声を上げ他者を誑かすものは無いということに尽きる。その本質をどれほど人間たちは知っているのか。悲の心によって、現世を旨く生きた人間が今、地獄で裁かれようとしているのだ。自分で自分を、良い人間だと思っている者の結論である。現世の善人が、閻魔に裁かれているのだ。地獄では、表面ではなく本当の内面が裁かれる。
 自己を、自ら「悲の器」だと言う人間は必ず裁かれる。その者は、愛と慈悲の名の下で他者を誑かす人生だったのだ。その厳しい本質を源信は問う。私はこの思想を知ったとき、源信が生きた世の中を摑み取った記憶がある。源信を友と感じたのである。愛と慈悲を謳う人間ほど、嘘の人間が多かった。それは絶対の真実と言える。そして自らこの世の汚れを背負い続けた人ほど、共感できる人物が多かったのだ。私は源信を知って、閻魔すら友と感ずるようになった。

2020年4月6日

源信(942-1017) 平安時代の僧。比叡山で良源に師事、のち横川(よかわ)の恵心院に住して修行と著述に専心。『往生要集』を著わして浄土宗の基礎を築き、法然、親鸞などに大きな影響を与えた。



中世の巻物に描かれた地獄の風景(部分)

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