草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 堀辰雄『風立ちぬ』より

    人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、
     もっと切ないまでに(たの)しい日々であった。  

 本当の愛、本当の恋が生み出した言葉だと感じた。堀辰雄のこの名作は、自己の「原体験」によって生み出されたことを私は実感した。ひとつの愛の苦悩、そしてもうひとつの恋の呻吟が生み出した人生の真の幸福ではないだろうか。自己の考えと自己の経験を捨て去った後の、本当の自己との出会いである。自己ではない自己と、自己自身が対面するのだ。それは、先験的(ア・プリオリ)な自己の実存を信ずることから生まれる。自己の運命を愛することから生ずるのだ。
 自己以外の、何ものかに捧げられた人生だけが、それをもたらすことが出来る。つまり自己の運命を愛するとは、自己以外のものを命がけで愛するということに他ならない。そのことによって、そのことだけによって我々は自己の本当の運命を生きることが出来る。その幸福を、堀辰雄は言っているのだ。幸福以前の幸福だ。不幸の中に煌めく、生命の幸福と名付けることも出来るだろう。人間の燃焼にとって、最も大切な生き方である。それは生き生きとしているが、切なさを湛えている。
 運命とは、そのようなものを言う。楽しい運命は、人間の運命ではない。真の人間の運命は、すべて生命が迸り、そしてあくまでも切ない。その切なさを抱き締め、生き切るのである。そこに人生の豊かさが生まれるように思う。それこそが、人生の本当の愉しさだろう。人生の愉しさとは、切なさと悲しみを言うのだ。その中を突進する、その生命の迸りを表わすのだ。私の人生も、最も悲しく切ない日々が、最も思い出深い幸福の日々だった。

2020年6月8日

堀辰雄(1904-1953) 小説家。芥川龍之介に師事。『風立ちぬ』で作家としての地位を確立。フランス文学の心理主義と日本の古典文学の融合を試み、知性と抒情の融合した独特の文学を築き上げる。ほか『聖家族』、『美しい村』等。

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